2023/03/13 10:00
―野口アヤの礎、武蔵野美術大学で見た世界―
人生の分かれ道、大学受験と就職活動。デザイナー野口アヤを形成するにおいて、とても重要だった武蔵美時代は、ファッションの引き出しも格段に増え、感性がさらに研ぎ澄まされて行った4年間。今回はそんな時期のお話をお届けします。
ファッションもアートも、どっちも好きな自分にぴったりな進路
実在するスーパーサブカル少女だった野口アヤさん。
「制服が着たくない!」という超健全な動機で選んだ高校は、都立の進学校。バンドにバイト、それにお洒落に明け暮れる多忙でリア充なスクールライフだったけど、勉強もちゃーんとしていたというからソツがない。でなければ、武蔵美になんて入れませんし。当時、女の子の進学先として多かったのが短大。お洒落好き&サブカル少女が、ファッションデザイナーになりたくて選ぶとしたら、文化やバンタン、もしくはセツや桑沢(※1)へ行きそうなものなのに、武蔵美というのはちょっと意外。
「たまたま私が高2の時に、1歳上の従姉妹が武蔵美に入ったの。工芸工業デザイン科っていうところで。それを聞いて『文化へ行くって言ってたけど、武蔵美に行ったんだ、受験して行ったんだ……私も行きたい!』って思って。私は小さい時からずっと、人見知りなところがあったんだけど、高校に入って勉強を頑張って普通に大学に行ってもつまらなそうで、やっていける気がしていなかったの。自分の得意なことをのばして生きて行かないと、生きて行けないって思ってた。普通に大学に入って企業に就職して社会でやっていくとかいうのは絶対無理だろうな、って思ってたのと、絵を描くのが好きで、服も好きで、クリエティブな仕事に興味があった、というのがうまいこと噛み合って『そっちの道しかないな』と進路を決めたわけ」
武蔵美という選択肢を知ってからは行動が早い。高校2年生の夏から着々と準備に取り掛かった。まずは高倍率の受験になるため予備校選び。美大入学の必須科目のデッサンを教えてくれる予備校は、新宿美術学院、代々木ゼミナール、それから河合塾。新美は藝大、代ゼミは多摩美、河合塾は武蔵美、という風になんとなくの路線があったそう。秋の学祭で軽音学部は引退して、高2の冬から本格的に河合塾があった千駄ヶ谷へ通うように。
美大受験はそれなりの学力に加えて、センスや技術もないと合格できないと聞くけれど、実際のところどうだったのだろう?
「実技は、鉛筆デッサン、それと詩みたいな文章を読んで着色の絵を描くの。イメージを絵にするテスト。あと学科で特殊といえば美術史かな? 美術にまつわる一般常識にちょっと色がついたような。それと国語と英語はすごく簡単だった(笑)。なんだかんだ高校の時はちゃんと勉強してたから?(笑)」
そして晴れて空間演出デザイン学科に合格! 入学式のファッションは前回お届けしたように、おNEWの古着のスーツ。専攻はその年から創設されたファッションデザインコースだった。就任したばかりの小池一子教授が教鞭を取る“ファッションデザインと現代美術”について学ぶことになる。
―生涯の恩師との出逢い 「ファッションとアート」を通じて美学を学ぶー
「表現の現場調査団」(※2)によると、2021年の東京芸大と5美術大学(武蔵美、多摩美、女子美、東京造形、日大芸術学部)を合わせた男女比は女子7割強だが、アヤさんが通っていた頃の武蔵美の男女比はおよそ半々だったという。当時、卒業後の学生の進路で多かったのは、グラフィックやプリダクト、エディトリアルなど各種デザイナー。時は1988年、バブル景気真っ只中。堅実な仕事以上に“かっこいい”仕事は男女問わず人気で、デザイナーは花形職業だった。
恩師・小池教授は1970年代、西武百貨店やパルコのコピーライティングなどを務め、無印良品の立ち上げにも携わる。スタート当初に掲げていた「わけあって、安い。」というキャッチコピーなどは彼女によるもの。コピーライターや編集者として活躍する一方で、日本初の伝説的オルタナティブ・スペース「佐賀町エキジビットスペース」を運営し、現代美術を中心とした美術展の企画なども行っていた。現在は「3331 Arts Chiyoda」内に「佐賀町アーカイブ」の名で、「佐賀町エキジビット・スペース」時代の活動内容や作品を保存・展示する場を運営している。本業を続けつつ、ギャラリーを持ち、琴線に触れたアーティストの企画展を行うスタイルは、「ayanoguchiaya」を続けながら「SISON GALLERy」を運営する今のアヤさんの仕事スタイルに通ずるものを感じる。
「小池先生の授業はとても素晴らしかったけど、すごく難しかった。ファッションとアートの境界線を探っている方で、単にファッションデザインをする、とか洋服を作ってファッションデザイナーになりましょう、と言う教えではなかったのね。ファッションとアートをつなげたり、ファッションから見たアート、アートから見たファッション……そういう絡みを研究したり、ご自身でも発信している方だから、そういう視点というか考え方を教えてもらった感じ。でも、大学生の時なんてそんなにちゃんと理解できるわけもなくて、ましてや『洋服好き!カルチャー大好き!デザイナーかっこいい!』みたいなノリでも来ているから、授業でお話しされてることの半分以上わからなかった(笑)。『おお、難しいこと言ってる……。どういうことなんだ?!』って頑張って聴いてた。半分は理解できてなかったんだけど、理解しようとしてた。大学だから実技だけじゃなくいろんな授業があって、その中でもやっぱり小池先生から学んだことが一番大きかったかな。文化みたいに、デザインしてパターン引いてミシンで縫って、って純粋にファッションをやっていくのとはかなり違ったカリキュラムだったと思う。」
恩師からの影響は服の好みにも影響を及ぼした。基本的に古着を着ていたアヤさんだったが、デザイナーズものの素晴らしさに気づき、コム・デ・ギャルソンやイッセイミヤケなどのブランドものをMIXして着るように。当時愛用していたギャルソンとイッセイの黒いワンピースは今も大切にとってある。
デザイナー志望の学生が多かった武蔵美の学生の雰囲気は、肩パッドの入ったジャケットとタイトなスカートの派手なスーツやボディコンを着る人がいない代わりに(当時一般的な大学でもそんな格好してた人は一部の学生だけど)、サブカルが炸裂したような個性派か、“いかにも”なオタクしかいない両極端な場所だったという。
(初めて購入したイッセイ・ミヤケのプリーツジャケット。衝撃的なデザインと構造だった。)
(こちらも初めて購入したコムデギャルソンのワンピース。今でも着られるデザイン。)
サブカルが炸裂した個性派ファッションのアヤさんだったが、意外にもアパレル関係のアルバイトは未経験。当時のショップスタッフは“マヌカン”と呼ばれ、カリスマ店員の走りとも言える人気職業。服飾系の学校へ募集はかけるが、わざわざ美大で募集することがなかったため、縁遠かったようだ。
やったことがあるのは、喫茶店やレストランのウエイトレス、模型製作、デザイン事務所の電話対応etc.……。中でも一番長く続いたのが、大学3年生になってから友人の紹介で始めたテレビ番組のグラフィックを作るデザイン会社の雑用だった。卒業までの2年間続け、アルバイトにも関わらず、社員旅行の石垣島にも連れて行ってもらったというからバブル景気のブイブイぶりを感じずにはいられない!
そして1991年、バブルの崩壊とともに社会人となる。就職先はヒロミチ・ナカノデザインオフィス。サンエーでVIVAYOU(※3)、hiromichi nakanoのデザインをしていた人気デザイナー中野裕通氏が独立して作った会社で、アヤさんは中野氏のアシスタントデザイナーとして採用された。
「私は世代的にもギリギリ就職できたな、って。ただね、就職してからすごくあせったの。服飾系の学校を出た同期はいくつもパターンを引いて、服を完成させて来たけど、私が武蔵美で作ったのはせいぜい5、6着くらい。アートの一つのジャンルとしてファッションについて考える、という勉強がメインだったから。今でこそ、そういう感覚って受け入れられてると思うけど、当時はとっても革新的なこと。私はファッションデザイナーになるつもりで入学したから、卒業後どうするか迷いはなかったけど、就活するようになって、困った人もいたんじゃないかな。だって、服飾の学校なら、デザインや制作、生産管理とかをアパレル企業で働くことを前提として授業してるじゃない? だから就職して、周りの仕事ぶりを見て『ヤバい!』って思って必死で足りない勉強したもん(笑)」
バブルがはじけてしまったとはいえ、90年代の東京のファッション業界はむしろこれからが目まぐるしくなっていく。次回はそんなめくるめくスピードで展開されるアパレル業界の渦中にいた側からの視点で、アヤさんの20代を辿る。
(※1)文化→文化服装学院、バンタン→バンタンデザイン研究所、セツ→セツ・モードセミナー、桑沢→桑沢デザイン研究所。それぞれ時代を席巻していたクリエイターを輩出しており、ファッション系の仕事を志すお洒落な若者たちが憧れたり通ったりした代表的な学校。
(※2)表現の現場におけるジェンダーバランス調査やハラスメントの実態調査などを行ない、「真に自由な表現の場」を作ることを目的として2020年に設立。詳しくはこちら(https://www.hyogen-genba.com/gender)
(※3)1977年にスタートした20代の大学生やOLをターゲットにしたブランド。チダコウイチ氏によると、ブランド名は、当時の社長に「君、やったら?」と指名された平岡豊氏の名前から、「VIVA豊」→「VIVAYOU」になったとのことだが、真偽は不明。中野裕通氏が企画として携わるようになったのは1981年からで、大人気を博す。2011年春夏シーズンで終了となった。
文:西村依莉
1982年生まれ、フリーランスの編集者&ライター。書籍・雑誌・WEBを中心に活動しつつ、高度経済成長期のカルチャーの片鱗を記録している。
最近編集した本に『昭和インテリアスタイル・ワンダー』『ピエールカルダン デザインアーカイブ』『旅するインテリア』(口尾麻美著)など。
Twitter&Instagram:@po_polka