ayanoguchiaya

2022/12/31 01:00


―吉祥寺(に近い街)育ち、愛読書は「Olive」「宝島」、サブカル少女だった野口アヤ


 いつもニコニコしていて穏やかだけど、時に情熱的で、話の引き出しがいくつもあって、だけど誰に対してもフラット。面白くてチャーミングで、不謹慎な笑いにも大らか(というより、きっと不謹慎な笑いが好きそう)。

野口アヤさんって、一体どんな少女だったのだろう? 多感な10代の頃に吸収したものや、感性を培ったカルチャーはどんなものだったんだろうか? 職業柄、通ってきた雑誌を聞くクセがあるけれど、少しだけその人のバックボーンに触れる導入となるから、雑誌ってすごいと思う。アヤさんが読んでいた雑誌が知りたい。雑誌や、聞いていた音楽を知れば、好きだったファッションが見えてくる。そして今もブレることなく変わらずに好きなもの。そんな “野口アヤ前夜”を少しだけ垣間見せてもらった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 アポロ11号が月面着陸した1969年に生まれたアヤさんが多感な10代を過ごしたのは1980年代。当然SNSやインターネットはおろか携帯電話もまだなかった当時、ティーンならずともほとんどの人の情報源はTV、ラジオ、雑誌が占めていた。 “サブカル女子でパンク好き”だったと話すアヤさんは、東京都練馬区の南エリア育ち。家は西武新宿線沿線にあったが、生まれは高円寺。吉祥寺が近かったため買い物や遊びに行くのはもっぱら中央線沿線の街〜新宿。やがて武蔵野美術大学へと進学するため、実は中央線カルチャーにとても造詣が深い。『東京ガールズブラボー』の“サカエちゃん”(※1)じゃなくても、ため息が出るほど“東京の人”だ。当時のムーブメントといえば、アイドル旋風が巻き起こっていた頃だが、アヤさんは押しも押されぬサブカル少女として歩み始めていたと言う。

アヤさんが10代の頃に読んでいた雑誌は、創刊したばかりの「Olive」と「宝島」(※2)。「Olive」はイメージ通りだけれど、「宝島」は少し意外だったが、見識の豊かさを思うと「宝島」は当然の嗜みかもしれない。また、その頃の「宝島」は「CUTiE」の前身としてのサブカルファッション誌的な要素もあった。

「当時の他のティーン誌って『SEVENTEEN』とか『mc sister』(※3)とか、ちょっと“良い子ちゃん”な感じだったから、『Olive』は得体の知れないオシャレ感が新鮮だった。『Olive』を見て、友達とアテネフランセに行って、ここで撮影してるんだね〜!なんて話して。すごく張り切ってオシャレして代官山にも行ったりしたんだけど、だんだん刺激が足りなく思えて来て、エグみ的な成分を補ってくれてたのが『宝島』だったかも(笑)」

そんなアヤさんにとってのアイドルはビートルズが始まりだった。自宅や親戚のおばさんの家にあるレコードをなんとなく聞いていくうちにすごく好きな曲を見つけ、徐々にハマっていった。歌謡曲ではなくビートルズが当たり前に流れている、吉祥寺文化圏の家育ち…。私は80年代の練馬区に住むティーンというと、あだち充の「みゆき」(※4)の若松兄妹くらいしか思い浮かばないけれど、あの兄妹の住む家も洒落ていたし、商店街のくじ引きでロックコンサートが当たって喜んでいたな、と思い出した。アヤさんはビートルズをロックというよりも“昔の音楽”という感覚で聞いていたけれど、「ヴィジュアルも雰囲気も全部含めて自分の好きなミュージシャン」という認識を持ったのが、ネオ・ロカビリーブームの火付け役となったストレイ・キャッツだった。

「来日したら絶対観に行こう!って決めてたくらい好きだったんだけど、中学3年生の時に解散しちゃって。その後、ネオモッズやパンクに傾向したけど、ストレイ・キャッツだけはずっと変わらず好きだった。当時まだ20歳そこそこだったブライアン・セッツァーのフロントアクトがめちゃくちゃかっこいいの。大学生の時に再結成して、大きなホールで来日コンサートがあった時は行けて嬉しかったな。56年前久々に来日しててソロライブにも行った。無人島にひとり取り残される羽目になったら、CD1枚持ってっていいなら何にする?っていう話を高校生の頃からの音楽友達とするんだけど、私はいつもストレイ・キャッツって言ってバカにされちゃう(笑)。みんなこの年齢に至るまでに、ジャズとか大人のロックにいったりするんだけど、私はもう『1枚だけだったらこれ!』って選んじゃうくらい、ずっと変わらず好き。もちろん今はジャズもクラシックもちゃ〜んと嗜んでますけどね」



(今でも好きなストレイ・キャッツのライブ版L Pレコード。再販された2年ほど前に購入。)


ロカビリーリバイバルを経て、ネオモッズブームと重なり、中学後半から高校の時には60sファッションに身を包むように。オシャレが楽しくて仕方ない年頃、高校は「制服が着たくない!」という健全かつ純然たるオシャレマインドから都立へ進学。1980年代半ばくらいの中学生というと、校内暴力世代(※5)。学校の窓ガラスは割れてこそいなかったけれど、厳しい校則、ダサいセーラー服(全員スカートの丈は長く、鞄はペチャンコ(※6)!)、そこからの解放! いよいよ、めくるめくおしゃれサブカル道を突き進む!



―バンド活動と古着に目覚めたおマセな高校時代― 


かくして、女子高生となったアヤさんはおしゃれサブカルティーンの道をさらに邁進するのだった。まず、スクールライフを充実させる大きな鍵、部活。「高校に入ったら絶対バンドをやる!」と決めていたため、迷わず軽音楽部へ入部し、バンドを結成。幼い頃からピアノを習っていたから、自然な流れだったのかもしれない。演奏はレベッカやゼルダ、その他パンクやニューウェーブ系のコピーがメイン。バンドでのアヤさんの役目はベース兼スタイリストだった。文化祭などでライブをする時には毎回衣装をデザインし、製作担当は裁縫上手な友達のお母さん。音楽を始めてからは「Olive」「宝島」加えて「DOLL」(※7)も読むようになり、パンクやハードロック、ナゴム系のミュージシャンを好んで聞くようになった。

ネオロカビリー、ネオモッズ、そしてニューウェーブからの流れで高校生の頃に着ていたのは基本的に古着だった。DEPTができたばかりで、買い物に行くといったら原宿のDEPTと、新宿のアルタ。2000年代までアルタはギャル服&「笑っていいとも!」収録スタジオというイメージだったが、その頃はDEPTを筆頭に様々なパンクショップや軍物専門店、ディスクユニオンが入るサブカルビルだったという。

「アルタで買い物して、伊勢丹の横のビルにあったツバキハウスに遊びに行くの。伊勢丹のレストランでおじさんがマネージャーをしていた縁で、そこでバイトして。バイト先のお兄さんにツバキハウスのロンドンナイトやロカビリーナイトへ連れて行ってもらったり。」

 ツバキハウスというと、テアトル新宿のビルの5階にあった1000人を超える大箱ディスコ。現在も場所を変えて続く長寿イベント「ロンドンナイト」が開催され、学生時代の藤原ヒロシやモッズバンド時代の甲本ヒロトが出入りし、吉川晃司が踊りまくっていたと聞く伝説の店だ。高校生の頃にそんな場所へオシャレして遊びに行っていたなんて、まさに東京ガールズブラボー!



(高校時代に初めて買った古着のワンピース。新宿にあったDep’t storeにて。おそらく50年代のもの。今でも大切にクローゼットにしまってある宝物。)



「服は基本的に古着で揃えるんだけど、バイトの給料日には伊勢丹やマルイに入ってるブランドものを買ったりして。でもDCブランドとかマルイとか伊勢丹の服にだんだん興味がなくなっちゃって。その頃ヒステリックグラマーができて、高校にはよくヒスのボンテージイラストTシャツとか着て行ってた(笑)。卒業式の服もヒスがよかったんだけど、欲しかったチェック柄のスーツが小さいサイズしかなくて、パンパンで入らなくて諦めたんだよね。それで青山の古着屋に親を連れて行って、ヒスでスーツを買う分の予算で卒業式と大学の入学式で別々の古着のスーツを買ってもらったの。」

 

―武蔵美へ進学後、さらにサブカル少女へと突き進むー

 

武蔵野美術大学へ入学した頃、「イカしたバンド天国」通称「イカ天」の放送が開始。大学に入る頃にはパンクスを卒業しつつあったアヤさんだが、忘れられない出来事があった。「『イカ天』といえば、武蔵美の先輩がマリア観音っていうバンドで出たのが事件だった。大学でも目立っていた、常に裸に毛皮のトップスと革パンの彫刻科の先輩。学祭でライブをやってるのを見てたから、『やばい!あの先輩がイカ天出てるよ!』って盛り上がっちゃって。で、歌い始めてすぐ全部脱いじゃって放送事故(笑)。」

 ちなみにマリア観音は現在も活動中。アヤさんが話していた裸に毛皮&革パンだったボーカルの木幡東介氏のツイッターではカマキリの切り絵などを公開している。

当のアヤさんは、大学へ進学してからは音楽の趣味が合うメンバーに出会えず、バンド活動はやめて、クラブ活動へシフトしていった。

世の中はジュリアナ東京のお立ち台でセンスを振ってバブル景気に沸いていたが、アヤさんの遊び場はレゲエやハウスのイベントや、西麻布の「YELLO」「ピカソ」などのクラブ。いろんな街にクラブがどんどん増えている時期で、気になる店に目星をつけては遊びに行って、行った先でフライヤーをもらって、その中からまた気になったイベントへ遊びに行く。お酒を飲んで踊って、音楽を聴いて、その場所で出会ったからこその交流が生まれた。同じ音楽の趣味を持った人達が集って、ネットワークが広がり、いろんな形で自己表現していく。まさに当時のクラブは、今でいうSNS的な役割を果たしていたと言える。80年代のサブカルチャーがぱんぱんに詰まった、ティーンネイジャーのアヤさんの姿が思い浮んで、可笑しさと憧れの気持ちが募った。

 

そんな“サブカル少女”だったアヤさんの、当時触れたファッションやアートにまつわるお話(そこが本番!)は、次回へ続きます。

 

 

 

(※1)岡崎恭子が1990-1992年に「CUTiE」(宝島社)で連載していた、1980年代の東京を舞台にした漫画。両親の離婚で北海道から東京の祖母の家へ引っ越した主人公サカエは、憧れの東京暮らしにイケイケな妄想爆発させるも、理想と現実のギャップに失望するが、ウマの合う友達ができ、はちゃめちゃ楽しそうなパンクでテクノでニューウェーブな日々を描いた漫画。時代を超えて東京に焦がれる地方在住者(主に10代の頃の筆者)がますます東京への憧れを募らせてしまう罪深い作品。

 

(※21973年に宝島社から創刊された伝説のカルチャー誌。特に1980年代はRCサクセション、YMO等のアーティスト、後の原宿カルチャーの礎となった「MILK」や「ヒステリックグラマー」を広めただけでなく、読み物もエッジが効きまくりだった。現在のトップクリエーターにも愛読者が多く「もっとも影響を受けたのは『宝島』だった」と語られること多数。まさにアヤさんもその一人! 10年単位で時代に合わせてコンセプトを変え、休刊時点のキャッチコピーは「タブーに斬り込む知的探求マガジン」。季刊誌「宝島AGES(エイジズ)」として、20141225日に復刊。当時の読者や当時のことを知りたい人にとっておそらく涙ちょちょぎれる内容で3号まで発売した。「宝島」の連載から派生した「VOW」は現在「sweet」で連載継続中!

 

(※3)婦人画報社(現ハースト婦人画報社)から1963年に創刊された「MEN’S CLUB」の姉妹誌として1966年に創刊。専属モデルは“シスターモデル”と呼ばれ、オーディションで公募していた。のちに菊川怜がカバーする「OH!モーレツ」で一躍人気者となった小川ローザや、RIKACO、川原亜矢子、田丸麻紀、香椎由宇など歴代シスターモデルは錚々たる顔ぶれだが、2002年に休刊となった。イラストレーターの故・森本美由紀がコミカルなタッチで漫画「タマちゃん」を連載していたり、90年代にはなぜかボキャブラ天国出演芸人が多く連載を持っていたことも筆者的には特筆すべき点。

 

(※41980-1984年に「少年ビッグコミック」(小学館)で連載された漫画。少女漫画誌に連載していた「陽あたり良好」でさえ野球を絡めていたあだち充作品には珍しくスポーツが絡まない王道の青春ラブコメディ。あだち充が練馬区在住とあって、あだち作品には舞台が練馬駅周辺と思しき風景が時折見られる。主人公の若松兄妹はモダンで瀟洒な一軒家に住んでいるが、兄の恋人である鹿島みゆきの自宅は庶民的な雰囲気で、時代の空気感が味わえる。同時期に連載していた「タッチ」も1980年代の(おそらく)練馬在住のティーンの物語だが、スポーツ&学園要素が強く、当時練馬に住むティーンのスタイリッシュさを知るには「みゆき」がベストだと思う。

 

(※51970年代後半から1980年代前半頃に多数の公立中学校で暴力事件が発生。社会問題として注目されるようになり、ドラマ「3B組金八先生」第2シリーズのメインテーマとなった。尾崎豊の「卒業」で“夜の校舎窓ガラス壊してまわった”という歌詞に象徴されるように、後々この頃の話をする際に「窓が割れていたかどうか」が、学校が荒れていたどうかのバロメーターとなることも。

 

(※6)ヤンキー的制服の着こなしテクの一つ。革の学生鞄を潰してなるべく薄く、何も入っていないように見せるのがイケてるとされていた。

 

(※71980-2009年まで株式会社DOLLから発行されていた音楽雑誌。1980年代から1990年代にかけての日本のパンク・ロックシーンを代表する音楽雑誌だった。邦楽・洋楽を問わずパンクを中心に、ロック、ハードコア、メタルなどをピックアップ。ラモーンズやセックスピストルズ、クラッシュ、グリーン・デイなど、海外アーティストの特集なども数多く組まれていた。

 

文:西村依莉

1982年生まれ、フリーランスの編集者&ライター。書籍・雑誌・WEBを中心に活動しつつ、高度経済成長期のカルチャーの片鱗を記録している。最近編集した本に『昭和インテリアスタイル・ワンダー』『ピエールカルダン デザインアーカイブ』『旅するインテリア』(口尾麻美著)など。Twitter&Instagram:@po_polka